ホメオパシーの可能性にかけてみたのです!
2017/08/11
ホメオパシーを知ってからというもの、「人の持つ可能性は計り知れない」と思うばかりです。
こんばんは、薬や病院に頼らないで健康になる方法をお伝えしている、東京スクールオブホメオパシー代表の黒澤今日子です。
新宿区神楽坂でホメオパシーの学校を運営しています。
病に怯え
1999年2月の夜、私は11才の娘とイギリスのダービーシャーの町に着きました。
成田からイギリスのヒースローまで約12時間のフライト、ロンドンで一晩を過ごして翌日キングスクロス駅から1時間45分程列車に揺られて夜遅くに着いた時には、外には小雪が舞っていました。
そこは日本のように駅の周辺に商店街や大きなスーパーもなく、小さな街灯の明かりだけが頼りの小さな駅です。
心細さも手伝って一層寒さを感じた事を今も鮮明に覚えています。娘はきっと私以上に心細さを感じていたに違いありません。
11才の娘は1987年に3姉妹の3女として生まれ、誕生時は2340グラムと小さく生まれましたが、あの日までは元気いっぱいに育っていました。
小学校2年生のある晩、いつものように娘達は皆で踊ったり歌ったりしながらいつもより遅い時間にベッドに入りました。すると寝付いてすぐに次女が妹の異変に気がつきました。
すぐに3女のもとに行くと、娘はベッドの中で大きな痙攣発作を起こしていました。
全身痙攣で意識はなく、とっさに私は娘の口の中に自分の指を入れていました。おそらくにわか知識で娘が舌を噛まないようにと思ってやっていたのでしょう。
救急車が来た時には娘の意識は戻り、そのまま病院には行ったものの、医師からは検査を受けるようにとの指示だけで帰宅しました。
その後病院での検査で「癲癇」という病名がつけられました。癲癇という病気は知ってはいたものの、身内には誰もいなく、何故?という気持ちだけでした。
それからは、母として娘の身体に良い事をいろいろ試してみました。
また、私自身、主婦として、また子育てをしながら植物を育てる事に没頭していた時期で、今でこそどんなお家の庭にもあるローズマリーやラベンダーなどのハーブを栽培し、料理や健康美容に活用していましたが、
日本全国にハーブのブームが到来し、ハーブインストラクターとしてハーブの栽培から活用方法を指導するお仕事も始めていました。その後はアロマテラピーが注目され始め、ハーブやアロマテラピーの指導者として、楽しくお仕事をさせて頂いていた頃でした。
その一方、娘の病気は、朝晩薬を飲んでいるにもかかわらず、相変わらず小さな発作は続き、いったいいつになったら治るのだろうか、いつまで薬を飲み続けなくてはならないのだろうかと、私の中には不安という抜けない刺が刺さったままでした。
その頃の私は、娘の病気を治すには現代医学や食事法、ハーブやアロマテラピーだけでは力が足りないのではないのかと感じ、他の何かを模索していたように思います。
ホメオパシーに可能性を求めて
そんな頃、「ホメオパシー」という言葉を耳にするようになりました。
当時ホメオパシーの本も1冊だけしかありませんでした。知り合いの医師が翻訳したというその本は今も私の本棚に大切に並んでいますが、これが最初に手にしたホメオパシーの本でした。
その後日本にもホメオパシーの学校が初めて出来ました。私自身経済的にも物理的にも全く余裕のない頃でしたが、何かに駆り立てられるかのように勉強を始めました。
ホメオパシーの勉強は今までの物の考え方を180度転換するような新しい発見の連続でした。
そしてまた、勉強すればする程「娘の病気への可能性」を感じるようになっていきました。
当時の日本ではホメオパシーに関する情報を手にする事は非常に難しく、インターネットも一般にはまだ普及されておらず、ホメオパシーの書籍も海外で購入するしか手に入れる方法がなく、だんだんに海外のホメオパシー事情をこの目で見てみたいと言う欲求が強くなって来ていました。
娘の病気が治る可能性が少しでもあるのであれば、実際にホメオパシーが広く活用されているイギリスに行ってこの目で見て少しの知識でも吸収してきたいとの思いが強くなってきたのです。
そしてある時夫に半年だけイギリスに行かせて欲しいと頼みました。
さすがに夫は驚いていましたが、結婚して以来、夫はいつも私がやりたい事を応援して来てくれました。また、ホメオパシーについても可能性を感じていました。
夫は「子供の面倒は自分が見るから頑張って来るように」と行ってくれました。本当に嬉しい瞬間でした。
でも、私の中では病気を持つ娘を置いて行く事は考えられず、連れて行きたいと思っていました。
ある晩娘に事情を話し、お母さんについてイギリスに行くかお父さんとお姉ちゃん達と一緒に日本に残るかの選択を迫りました。
娘はポロポロと涙を流して、私と一緒にイギリスに行く事を決めました。
大好きなお友達やお父さんやお姉ちゃんと別れて知らない国に行く事は心細かったに違いません。酷な選択を迫った物だと我ながら思います。
イギリスに行ってからはホメオパシーの学校に入り、ホメオパシー三昧の生活が始まりました。
朝から晩まで勉強しました。自分の人生の中であれ程勉強をしたことはありませんでした。
娘も一生懸命にイギリスの生活に慣れようとしていたと思います。
ところがある晩、薬を飲んでいたにもかかわらず娘が癲癇の大発作を起こしてしまいました。
この時ばかりは娘と2人心細くて抱き合って泣きました。そしてこの時初めて娘にホメオパシーの治療を受けさせようと決めました。
実を言うと、それまで知識の乏しい私は、自分が一生懸命勉強をして娘の病気を治そうと思っていたのですが、ホメオパシーでは、ホメオパスは対象となる患者をありのまま見る事が大切で、血のつながりのある親子ではそれが難しいということを知らなかったのです。
ホメオパシーで奇跡が起こった
初めて娘のセッションをして頂きました。
ホメオパスが娘にいろいろと訪ねます。好きな事は何?好きな食べ物は?1時間程の簡単なものでした。
その後ホメオパシーのレメディを渡されて摂取しました。
そしてその後ビックリする事が起こりました。
それまで1ヶ月に数回起こっていた発作が摂取後1ヶ月間まったくなく、3ヶ月しても発作は起こらず、もちろんもうレメディは摂取していないにもかかわらず、5ヶ月たってもたった一度の発作もなく、娘は毎日楽しく現地の学校に行っていました。
ビックリしたのは娘より私でした。こんな事があるなんて!5ヶ月間ただの一度も全く発作がない!本当に「これは本物だー」と思いました。
そして半年で帰国する予定であった私たちは3年以上イギリスで、私はホメオパシーの勉強を娘は現地の学校で学校生活を満喫することになったのです。
夫はというと「しょうがないな〜」となかばあきれ顔でも喜んでくれました。その間2人のお姉ちゃん達も交代でイギリスに遊びに来て、イギリスの生活を皆で楽しみました。
帰国してからはホメオパスとしてクライアントさんを見させて頂くお仕事が始まりました。
まだまだホメオパスとして駆け出しの頃に大きな問題を抱えた親子さんのご相談が来ました。
夫の知り合いということもあり、無謀にもお引き受けしてしまったのですが、今から考えると冷や汗が出ます。
当時小学校2年生の双子の男の子のご相談でした。
ご両親は子供のためになるのであれば試してみたいと、ホメオパシーの本もお読みになった上でご相談に来られました。
男の子達は超未熟児で生まれ、お兄ちゃんは重度の知的障害を持ち、2人とも車いすの生活をされていました。
ご両親は今の状態からひとつでも出来る事が増えれば良いのだけれど。。。という希望を持っていらっしゃいました。
その当時の私は学校でこのようなケースを学んだ事もなく、ホメオパシーでどれだけのことが出来るのだろうかと思いながらも、ご両親の理解とご協力のお陰でとにかく初めてみる事にしました。
お話を伺うと男の子達を妊娠している間にお母様にとって大変大きなショックを受ける出来事があったということがわかって来ました。
これがレメディを決める大きなヒントとなり、お子さん達とお母様にも同じレメディを摂取してもらうことにしました。
レメディを摂取後重度の知的障害を持つお兄ちゃんの方は、言葉がどんどん出て来るようになりご両親はビックリしていました。
プールの端に数分間座っていられるようにもなりました。
弟の方にも変化がありました。そしてお母様にも変化がありました。
お母様は好転反応が起こった後に活力がわいて来て、一層パワフルにそして生き生きと家事に育児にママさんバレーにと活動的になられました。
私自身こんな小さな白い粒が大きな大きな力を秘めている事を実感し、レメディ一粒の重さを感じた出来事でした。
このケースはホメオパスという職業につくことになった私にとって最も心に残るケースとなりました。
さて、今も毎日多くの患者さんや生徒さんとともにホメオパシーの世界にいます。ホメオパシーを通じてとてもたくさんのことを学んできました。
今私がここにいられるのは、多くの患者さんと生徒さんのお陰であると心から思います。
そして家族の理解と応援が大きな支えとなった事は言うまでもありません。
一緒にイギリスに行った娘は再びイギリスに渡り、イギリスの大学を卒業して今は28才となり、夢がかなって好きな仕事で海外を飛び回っています。
もちろんあれ以来一度も発作は起きていません。
まさに奇跡が起きたのでした!
東京スクールオブホメオパシー代表
(株)スタンダードホメオパシー代表取締役 黒澤今日子
東京都新宿区天神町64神楽坂アトリエ64 2F(地下鉄東西線神楽坂駅矢来町出口より徒歩4分)
℡ 03-5227-8305